トマト、トマト。

 トマトを潰せ。


「君はトマトを持っているだろう」
 見知らぬ少年にふと声をかけられた柿渋は、あまりに不躾なその態度を不快に思って振り返りざま唇を突きだした。空っ風に乾燥した唇はぴりぴりと爆ぜて灼けつくようだ。
「いいや、トマトなんてとんと知らないね」柿渋は大きく胸を膨らませる。「僕の知っているのは柿だけさ。柿渋っていうのが僕の名前だ。どうだい、いい名前だろう。だけど赤いトマトとは何ひとつ関係はないぜ」
 いったいこの奇天烈な少年は何なのだろう。胡散臭いったらありゃあしない。少年の小振りな頭のてっぺんからしゃんと尖った爪先まで舐めるように観察し、柿渋はいよいよ唇を突きださずにはいられなかった。
 妙に色の薄い睛にも、ひょろりと細長すぎる手脚にも、血管の浮いた手の甲にも、これっぽっちも覚えはない。何の目的があって自分に声をかけたのだろう。
 こんなときには深入りは禁物だ。適当にあしらってさっさと追い払ってしまうに限る。
 だのに少年は柿渋がどんなにトマトなんて知りはしないと言ったところで、そんなはずはないと頑なに繰り返すばかりなのだ。柿渋の言うことに取り合う様子など一向ない。
「くどいな、君も。僕はトマトなんて知らないってさっきからずっと言っているんじゃないか」
「だって君の頬っぺたはずいぶんふくふくとしてそんなに真っ赤に熟れているじゃあないか。それはトマトとは違うのかい」
「君はくどいうえずいぶんと失礼な奴なんだな。どうして僕の頬っぺたがトマトなんだい。僕は柿だよ、柿渋だ。トマトなんてとんと知らない」
「本当かなあ」
「本当だよ」
 押したり引いたりの問答が堂々巡りで、本当に埒が明かない。柿渋は頭がかっかしてきてしまった。その様子にようやく気がついたのか、少年は何十回目か判らない柿渋の頬っぺたトマト説の否定を聞くと、「そんならしようがないな」と引き下がった。
「……そこまで言うんなら君の頬っぺたはトマトじゃあないんだろう。どうも手間を取らせたね、済まなかったよ、ありがとう」
 くるりと背を向けて元来た径を戻り始める。この寒いのに半ズボンを穿いて剥きだしになっている膝は、案のじょう寒さに顫えて赤く染まっていた。
「君。君。ねえ、ちょっと待ってくれないか」
 柿渋はその瞬間あることを思いついて、どきどきと高鳴る胸で少年を呼び止めた。
 少年は曲がりかけた角に手をついて体をこちらへ押し戻すと、面倒臭そうに柿渋に目を向けた。
「何だい、今さら」ちょッ、と舌を打つ。「今になっていちゃもんをつけられたって困るよ。君の頬っぺたがトマトだなんて勘違いをやらかしたのはまったく僕が悪かったし恥ずかしい限りだけれど、何たって僕は一刻も早くトマトを見つけてしまいたいんだ。君の頬っぺたがトマトじゃないと判った今は、これ以上君にかまっている余裕はないんだけどな」
「そのトマトのことなんだけれどもね、」柿渋はこの場にはないトマトを指し示すように人差指をつっと立てた。少年は釣られたように柿渋の指先を見つめている。「トマトとは、実は君の膝のほうじゃないのかい。だって僕の頬っぺたよりもそんなに赤くって、丸く突きだした形もまるでトマトにそっくりじゃないか」
 柿渋に言われ、少年は目をしばたたいた。それから柿渋の指先にやっていた目を自分の膝に移し、まじまじと見つめた。膝を屈折したり左右に組み替えたりを繰り返す。
「本当だ」ぽつんと言った。
 柿渋は自分の胸が好奇心で大きく膨れ上がるのを感じていた。とてもどきどきしている。「ね、君はそのトマトを探しだしていったいどうしようと言うんだい」
「ひとつ残らず潰してしまうのさ」少年は自分の膝から柿渋の顔へと視線を移し、うっすりと微笑んだ。
「トマトを……潰す?」
「そうとも、そうとも」
 いったい何だってわざわざ探しだしたトマトを潰すんだろう。トマトを潰すとはどういうことだろう。柿渋には少年の言うところが今ひとつ理解出来なかった。
 すると少年はトマトのように赤く丸く突きだした膝を大きく一度曲げ伸ばしし、内証話でもするかのように声をひそめた。
「実はそのトマトはね、僕の作ったものなんだ。僕が自分で肥料をやり、水をやり、ときおり話しかけたりなんかもしながら大切に大切に育てたんだよ。お蔭で季節はずれにも関わらずトマトは立派に生長した。真っ赤に熟れた果実を齧れば甘酸っぱい汁がこぼれて指の隙間を濡らすんだ。僕はほかの誰にもそのトマトを食べさせたくない。何といっても丹精こめて育てた僕だけのトマトなんだもの。それなのに母さんったら、僕に内証であのトマトを持ちだしたんだ。そのうえトマトの籠をそのままどこかに置き忘れたものだから、あろうことかどこかの誰かに盗られてしまった。
 それだけなら、まだよかった。どれだけ哀しくても母さんだけを責めて母さんだけに復讐をすれば済む話なのだもの。
 でもね、あのトマトは食べることは出来ないんだよ。何たってあれは毒入りトマトなんだからね。……正直を言うと僕は母さんがあのトマトを密かに狙っていたことに気がついていた。だからそんなふうに毒を仕込んでおいたんだろう。けれども母さんが食べる前に、当のトマトはどこかの誰かに盗まれてしまった。僕は真っ当な人間だ。いくら盗人だからといっても、僕の知らない縁もゆかりもないどこかの誰かがあのトマトを食べることはもっとも避けねばならない事柄だし、僕は怖ろしく大それたことを仕出かしているのだという事実にも気がついた。だから僕は、なおさらトマトを見つけだしてひとつ残らず潰してしまわなければならないのさ」
 すっかり話を終えると、少年はどっと疲れた様子で大きく深い溜息をついた。それから何かを考えこむようにじいと柿渋を見据え、
「ねえ」
 と声をかけた。少年を見返した柿渋の肩はなぜだかわずかに顫えていた。
「君。僕の膝には本当にトマトが這入っていると思うかい。だとしたら僕はこの膝も潰してしまわなければならないね」
 けれども柿渋からの返答はなく、相変わらず肩をぶるぶる顫わせていて、怪訝そうにした少年にその顫える肩を掴まれたとたん、「嗚呼」ととうとう堰を切ったような嗚咽が洩れた。「僕は、嘘をついた」
 嗄れた声で柿渋は喘いだ。
「やっぱりトマトは僕の頬っぺたに違いないよ。何もかもすっかり打ち明けよう。僕はね、この頬に忌々しいふたつの袋を持っているんだ。ふだんは絶対にこんな袋を使わないのに、今日に限ってトマトを隠すのに使ってしまった。赦してほしい。だって籠のなかのトマトにお陽様の射す光景があんまりおいしそうだったものだから、ついつい手が伸びてしまったんだよ、赦してほしい」
 とたん、少年は冷めた目つきになった。柿渋は少年の袖を引いてなおも嗚咽を高くした。
「ねえ君、トマトは返すよ。このとおりだ。だから、後生だからこの僕の頬にこんな忌々しい袋のあることを誰にも秘密にしておいてくれるわけにはゆかないかい。頬袋を使ってしまったのは本当にちょっとした出来心だったんだ。もちろん、トマトをくすねてしまったことも。それくらいに君の育てたトマトが見事だったということだよ。ね、そうだろう」
 柿渋は掴んだ腕にきつく力をこめたけれども、少年は容赦なくそれを振り払った。べッと唾を吐く。
「頬の袋どころか君はトマトを持っていることすら隠していたね。そんな袋、トマトと一緒に潰しちまえよ。そうすれば君には忌々しいものなんて何ひとつなくなるんだから」
 言うが早いか、少年は柿渋に声を上げる暇さえ与えず両手でその頬を思いきり叩きつけると、あっという間にトマトごとその袋を潰してしまった。
「君の膝は……君の膝も……袋になっているんじゃあないのかいッ!」柿渋は痛みでその場にくずおれて、トマトの赤と一緒に血の紅を吐きだしながら、今にも去ろうとする少年の背中に向かって叫びつけた。
 少年は地べたを這いずる柿渋を見下ろし、ただにんまりと嗤うばかり。