しばらく前に結婚した兄の下に野暮用で出掛けたら不在で、嫂の綾野さんが出迎えてくれた。綾野さんは前の旦那さんを亡くして兄と再婚した。兄は傷心の綾野さんをずいぶん励ましたと聞く。
 三十を少し過ぎているが、娘のように若く奇麗だ。とりわけ唇の血色がよくてあどけなさが増す。
 出直しましょうと言うと、そう言わずに上がってらっしゃいと招かれる。「せっかく来たのだから。お茶とお菓子くらい召し上がって。そのうちにあの人も帰ってくるでしょうし」
 遠慮するのも悪いかと思い、それではと靴を脱いだ。まだ新婚の二人の部屋は清々しく整頓され、掃除の行き届いたフローリングではスリッパの鳴る音も小気味よかった。奇麗好きな人なのだろう。
「あなたは今年でいくつになったの」切り分けたカステラにダージリンティを添えて出してくれながら、綾野さんが言う。
「二十歳になりました」
「それじゃ、成人式だったのね」
「ええそうです。式典では懐かしい顔ぶれに逢えましたよ。すっかり様子の変わってしまっているのも居ましたけれど。あれはなかなか面白いものですね」
「そうね。……何かお祝いを差し上げなくちゃ。ごめんなさいね、私ったら全然気がつかないで」
「いいえとんでもない、お気遣いなく。そのお気持ちだけで充分です。しかしこれからの身の振りをきちんとしなければいけませんよね」
 ざらめのついたカステラにダージリンティはよく合って、ついつい口が滑らかになる。僕はときどき、綾野さんの娘のように血色のよい唇や、細い指先を盗み見た。それはあどけないと同時に、艶やかでもある。
 どれだけ待ってみたところで兄は帰ってきそうにもなかった。僕は結局また日を改めることにして立ち上がる。「戴き立ちで申し訳ありません」
 綾野さんは気にしないでと頸を振り、玄関まで見送りに来てくれた。靴を履いたところで呼び止められる。
「これ、お祝い」
 手のなかに落としこまれた小さな金属は、この家の鍵だった。思わず綾野さんの顔を見ると、ふ、と笑い、「成人したあなたへのプレゼント」と耳許で囁かれる。生々しい息がかかった。「あなたも、あの人の居ない時間をきちんと把握しているようだから」
 耳朶を噛まれ、ぬらりと血が流れるのが判った。近いうち、兄は亡くなるかもしれない。