何ひとつ知らないことなどない。
 細い足頸の先のぴかぴかのエナメル靴が飛びきり素晴らしい高い音を立てるのはその厚い靴底に小鳥が棲んで絶えず囀っているからだし、長い亜麻色の髪の毛があんなにも軽やかに踊るのは彼女がいつも使っている櫛と彼女の髪が恋をしているからだ。唇が薔薇色なのは常に深く空気と口づけているからで、奇麗な声は喉の見えない場所に鈴を呑んでいるからだ。
 キリヱッタは丘の上の時計塔に栖んでいる。三人姉妹の真ん中だ。
 アリヱッタ・キリヱッタ・マリヱッタ。
 この娘たちは一人一日四時間かける二回の八時間ずつ、時計塔の時計を動かすことを仕事にしている。時計塔の時計の下部には大きな振り子然としたブランコが下がっており、娘たちはこのブランコを一定のリズムで漕いでゆく。ブランコの振り子が正しく行き来すれば時計もまた正確な時を刻むわけだ。丘の下の町では娘たちの動かす時計塔の時計を基準に一日の生活を営んでいる。誰も彼もが規則正しい生活を送っている。言わずもがな正確な時計塔の時計のお蔭だ。町には時計塔以外にどこにも時計は存在しない。
 広場では毎朝七時に見事な白髪のご老人が二匹のラブラドール・レトリーバーを散歩に連れてくるし、斜向かいの子だくさんの家族はその時間珈琲豆を挽いている。七時半になれば隣家の兄妹が学校へ行くため子供たちを誘いにくる。たくさんの子供たちは行儀よく一列になって玄関を出てくる。いちばん下の悪戯坊主だけはまだ学校へ行く年齢ではないのでいつも家で留守番だ。つまらなそうに窓辺に頬杖をついてきょうだいが通学路を歩いてゆくのを眺めている。

 五時に起床した僕は朝の仕事を手早く済ませ、広場の前を八時にバスが通るまでにスクランブルエッグとベーコンとたっぷりのマーマレードジャムの載った食パンの朝食を済ませる。それから外出の準備をする。
 僕は家畜の世話を生業としており、生みたての卵や牛の乳や季節によっては刈りたての羊毛などを届けに丘を登る。家族もきょうだいもない一人きりの暮らしだし、一人で食べてゆくだけの稼ぎがあれば充分なのでおすそ分けすることはむしろ僕にとっても助かるのだ、というのはもちろん口実だ。
 キリヱッタに逢いたさに。
「ああ、君ね」
 娘たちは揃いも揃って僕の訪問を心得ており、手早く僕を時計塔の奥へと通す。少し華奢な脚をした椅子にはライラックの座布団が敷いてあり、それは僕専用の椅子だという意味だ。時計塔に通いはじめた頃、アリヱッタが拵えてくれた。アリヱッタは特に手先が器用で、この時計塔にある毛織物や綿製の品々はおよそアリヱッタの手によるものだと考えてよい。娘たちもそれぞれの椅子にそれぞれの色のついたアリヱッタ特製の座布団を敷いている。
「ライラックの花言葉を知っている?」僕がアリヱッタの拵えてくれた座布団の坐り心地を褒めている横で、マリヱッタがしたり顔でそう言ったことを僕は今でも鮮明に覚えている。頸を振る僕にマリヱッタはこう言ったものだ。「初恋の味というのだわ。きっとあなたに似合ってよ」
 以来僕はマリヱッタの前に出るとほんの少し緊張して厭な汗を掻く。
 その日僕が時計塔を訪ねたときもキリヱッタはちょうどブランコを漕ぐ当番の真っ最中で、彼女が膝小僧の目立つしなやかな脚を曲げ伸ばしするたびスカートの裾がひらひらはためいているのが階段を登る途中から見えた。時計塔はブランコを漕ぎやすいよう吹き抜けになっていて、絶対にあり得ないけれども万が一落下したときのため下には網が張り巡らされている。この網の傍を通過するときだけ空気がとても冷たく感じる。
 僕はおすそ分けとして持ってきたまだかすかに温みの残る卵の籠をアリヱッタに渡し、ライラックの座布団の敷かれた椅子に早速坐ってキリヱッタのスカートのひらひらはためくのを存分に眺めた。彼女のスカートがあんなにも軽々と舞うのはあのスカートが引力を寄せつけないからだ。
 マリヱッタは部屋の隅の机にうつ伏せて、いかにも心地よさそうな寝息を立てていた。
「いつも新鮮な卵をありがとう」胸に抱えた卵の籠に嬉しそうに頬を寄せ、今紅茶を淹れるわ、とアリヱッタは言った。「もうすぐキリヱッタの当番が終わるから、そうしたら二人で一緒にクッキーでも食べるといいわ」
「クッキーがあるの」
「焼きたてよ」
「ありがとう。じゃあそうするよ」
「キリヱッタが焼いたものだから、たっぷり褒めてあげるといいわ」
 アリヱッタはそう言ってから急に自分の言葉がおかしくなったのか、肩を顫わせてけらけらと笑いだした。笑いはなかなか治まらず、肩を顫わせ続けたまま卵を抱えて厨房へと引っこむ。たぶん、助言などせずともキリヱッタの作ったクッキーを僕が褒めずにおくわけがないということに気がついたのだろう。
 本当はキリヱッタの当番が何時から始まって何時に終わるのかも、僕は空で言えるくらいまでに把握している。けれども彼女がブランコを漕ぐ姿を見たいがために当番の終わりの時間よりもほんの少し早めに訪ねることにしているのだ。
 厨房の薬罐の蓋が内側から蒸気に押されて疳高い音を立てている。もうすぐ湯が沸くだろう。アリヱッタが紅茶を淹れてきてくれるのを待っていたら部屋の隅で睡っていたマリヱッタが目覚めて、僕の顔を見るなり慌てて部屋を飛びだして時計塔を上へと登っていった。キリヱッタの次にブランコを漕ぐのはマリヱッタなのだ。
 見ているとすぐに漕ぎ手がマリヱッタに代わった。キリヱッタの当番が終わったのだ。娘たちは慣れたもので、ブランコを寸分も止めることなく場所を入れ替わることが出来るのにはもはやただただ感嘆するしかない。ブランコが向こうへいって戻ってきたと思ったらもう漕ぎ手が代わっている。サーカスの曲芸を見ている気分だと何度思ったことだろう。それを話したら三人が三人ともにサーカスなど見たことがないから較べようがないと口を揃えた。

 キリヱッタはぴかぴかのエナメル靴から飛びきり素晴らしい高い音を立ててやってきた。小鳥の囀りのようなその音はすぐに彼女がやってきたことを知らせた。僕の名前を呼ぶその声はやはり美しく、鈴の音がした。
「変わりない?」キリヱッタはその日初めての挨拶を必ずその言葉で始める。変わりない? 僕はうなずく。
「変わりない。君は?」
「私も」
「それはよかった」
「今日も新鮮な卵を差し入れてくれたんでしょう。どうもありがとう。私、あなたのところの卵が大好きだわ」
 キリヱッタに優しい言葉をかけてもらえるととても嬉しい。耳朶が熱を持っていた。キリヱッタは自分の椅子を引き寄せて腰掛け、そのときちょうどアリヱッタが紅茶とクッキーを運んできてくれた。盆に載っているのは二人ぶんだけだ。僕たちの前にそれらを適切に並べるとすぐにまた厨房へと引っこんでしまう。僕に気を遣ってくれているのだろう。
 僕はキリヱッタの焼いたクッキーをひとつつまんだ。
「とてもおいしいよ」
 キリヱッタは笑い、
「紅茶も飲んで」
 と言った。
「アリヱッタの淹れてくれた紅茶もおいしいわ」
 それから僕とキリヱッタは何ということもない、すなわち天気や服装や気分や何やらのことについてをしばらく話した。キリヱッタは僕の言葉をいちいち興味深そうに聞いてくれたし、僕はただキリヱッタの鈴の音の声が聴けるだけで幸福だった。キリヱッタの焼いたクッキーを土産にひと包み貰って帰ろうと決めた。
 アリヱッタはしばらく厨房にこもっていたけれどもやがて洗濯をするために時計塔の階段を下りていった。すれ違ったとき紅茶を褒めることを忘れなかった。
 今はマリヱッタが動かしている時計塔の時計が来訪から一時間経ったことを告げた。マリヱッタの次にブランコを漕ぐのはアリヱッタだから、僕はあと実質七時間キリヱッタと一緒に居ることが出来る。けれどもそうそう長く家畜を抛っておくわけにもゆかないし、あと二時間でいつも僕は暇を告げる。町の誰もが時計塔の時計を基準に一日の生活を営み、規則正しい生活を送っている。もちろん僕も例外ではない。
 キリヱッタとは塔のなかの小部屋で当たり障りのない会話を交わすだけだ。それ以上の何かはないし期待もしない。いや、それは少し嘘だ。期待はしている。本当は僕は娘たちにもっともっと外の世界を見てほしい。サーカスへ行き、アイスクリームを食べ、抱えきれないくらいたくさんの買い物でもしたらいい。
 だから時計塔をすべて機械で動かすための設計図を描き、キリヱッタに提案したことがある。計算も図も完璧で、事前に行ったシミュレーションも問題なかった。当然費用も材料の調達もすべてを一人で賄うつもりでいた。僕はただ純粋に娘たちの喜ぶ顔を見たかったのだ。
「ここで時計塔の番をしている限り君たちは遠くへゆくことが出来ないんだよ。だって何も君たちが振り子の役割をしなくたっていいんだ。時計は本来機械で動かせるものだ。僕は家畜しか飼っていないけど、数式も得意なんだ」一緒に観にゆくためのサーカスの巡業スケジュールも把握していた。有名な一座が数箇月後に近くまで来る予定だった。けれどもキリヱッタは笑わなかった。
「その話はやめましょう」ただ哀しげだった。
「なぜ」
「私は今の生活に不満はないわ。遠くへ行きたいと思ったことはないし、ブランコを漕ぐ当番の廻ってくるまでに八時間もあるじゃあないの。それだけ自由に出来れば何の問題もないわ。それに、家畜の世話をするのがあなたの仕事であるように時計塔の振り子を動かすのが私たちの仕事なのだもの。ずっとそれを誇りに思ってきたのだもの。町の人たちは私たちの仕事を認めてくれているものだともずっと思っていたわ」
「……ごめん、」
 以来一度もその話はしていない。キリヱッタも何も言わない。

 僕はあのとき言うべきだったのだろうか。今でも迷うことがある。時計塔は確かに町の大事な財産ではあるけれども、振り子を動かす三人の娘は誰もに怖れられている。
 ひとつ、娘たちは昔から少しも歳をとっているように見えないこと。
 ひとつ、この時計塔がいつから丘の上にあったのかを誰も知らないこと。
 ひとつ、娘たちの素性を誰一人正確に知る者が居ないこと。
 町に時計塔のそれ以外の時計がひとつもないのだって、どれだけ拵えてみたところで必ずすぐに前か後ろかに狂いだしてしまうからだ。一時間も正確であったためしがない。それは丘の上に時計塔のある所為だと思っている町民は少なくない。本当のところなど何も判りはしないというのに。
 だから時計塔は貴重な財産であると同時に忌むべき代物だった。
 誰も口に出しはしないけれども僕が時計塔へ足繁く通うこともまた快く思われてはいないだろう。三人の娘たちは異分子だ。
 それでも僕はキリヱッタを好きなのだし、時計塔の時計を動かすことに彼女が誇りを抱いている以上、あのとき口を噤んだ僕の行為は正しかったのだろうと思う。敢えてキリヱッタを哀しませることはない。
 僕はキリヱッタが魔女だったとしても何かもっと別なものだったとしても、けっして見棄てはしないだろう。キリヱッタがキリヱッタであることを僕はずっと以前から知っている。それ以外にいったい何を必要とするのだろう。
 ――たとえばキリヱッタが死んだら。
 僕は彼女のために今度こそ機械仕掛けの時計塔を作るだろう。彼女の遺骨を針に使って。彼女の骨は華奢だけれども密度は濃く、虹のように奇麗な色をしているはずだ。それは文字盤にどれほど映えるだろう。鈴の音のような音で時計は鳴り、寸分の違いもなく時刻を刻み続けるだろう。けっして前にも後ろにも狂いはしない。
 キリヱッタはいつまでも時計塔で時刻を刻み続ける。それがキリヱッタにとっての最高の弔いになるだろう。僕はそう確信しているし、今度こそキリヱッタにも喜んでもらえる方法のはずだ。
 ただ、それはたとえばの話だ。キリヱッタは今とても元気だし、細い足頸の先のぴかぴかのエナメル靴は飛びきり素晴らしい高い音を立てる。それはその厚い靴底に小鳥が棲んで絶えず囀っているからだ。亜麻色の長い髪が軽やかに踊るのは彼女がいつも使っている櫛と彼女の髪が恋をしているからで、唇が薔薇色なのは常に深く空気と口づけているからだ。奇麗な声は喉の見えない場所に鈴を呑んでいるから。スカートが軽々と舞うのは引力を寄せつけないからだ。何ひとつ知らないことなどない。

 二時間が過ぎたから、僕はキリヱッタに暇を告げた。
 クッキーをひと包み、土産用に拵えてもらうのを忘れなかった。